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【アラベスク】  第15章 薄氷の鏡



第3節 狐と鶴 [4]




 他の声が次々と同調する。
「うわぁ、みっともねぇ」
「ババ臭いパンツ」
「チョーカッコワルッ!」
「何、あの頭」
「団子?」
「醤油付けて食ってみるか?」
「尻餅の音もすごかったよねぇ」
「地震かと思った」
「デカいケツ」
「うぜぇなぁ」
「いつまでコケてんだよ」
「誰か助けてくれると思ってんのか?」
 哄笑と罵声と侮蔑の嵐。すべてのモノが女性を(けな)し、世界のすべてが彼女を(あざけ)る。女性の顔が蒼白し、だが次には真っ赤になり、勢い良く立ち上がる。そうしてウィッグもそのままに扉から飛び出していった。
 後にはただ嗤い声が響くのみ。そして周囲は一通り嗤った後、何事も無かったかのように歌い、踊り、叫びまくる世界へと戻っていく。
 霞流慎二は女性の姿が消えた扉に下卑た笑みを投げ、そうして店内へ視線を戻す途中、チラリと美鶴を一瞥した。
 次はお前の番だ。
 美鶴は硬直した。全身の血液が爪先へ一気に落ちて行くような錯覚。貧血で少し気分も悪くなった。
 私もああなる。
 ゴクリと生唾を飲む。
 わかっていた。わかっていたはずだ。霞流慎二は、女性を弄び、羞恥に曝し、(おとし)めて(たの)しむ。それはわかっていたはずだ。だが、目の前で実際に見せ付けられると、さすがにたじろぐ。
 私には耐えられるだろうか? あのような扱いを受けても毅然と雄視(ゆうし)する事が、私にはできるだろうか?
 ウーロン茶が情けない音を立てて吸い上げられる。
 どうしてあんな姿を見ても、霞流さんの事を諦められないんだろう?
 諦める事もできず、かと言って向って行く事もできない中途半端な自分に嫌気が差してきた時だった。
「あら?」
 ユンミの声に顔をあげる。
「どこ行くのかしら?」
 見ると、霞流が扉へ向っている。邪魔な人垣を肩で押しのけながら、少し虚ろな視線は真っ直ぐに前を向いたまま。
 これだけの人混みの中でも、霞流の姿を見失う事はない。端正な、色白で痩せてはいるが(やつ)れているワケではない顔立ち。貴公子らしく洗礼された物腰。背に伸びる薄茶色の長髪が、周囲の世界を弄ぶかのようにサラサラと揺れる。まるで彼の周囲だけ世界が違うかのよう。神話に出てくる妖精や精霊が、彼に魔法の粉でも降り掛けたのではないか? そう錯覚してしまうほど神秘的で、艶麗(えんれい)で、それでいて(さや)か。
「熱冷ましかしら?」
 などと首を傾げている間に霞流は扉へ。そうしてゆったりと押し開けると、そのまま外の世界へと姿を消した。
 店内を横切る姿に見惚れていた美鶴は、ハッとして立ち上がった。
「行くの?」
 ユンミの言葉に美鶴は問いかけで返す。
「ユンミさんは行かないんですか?」
「だって寒いんだもん」
 身を縮込めて丸くなる相手に背を向け、コートを掴んで後を追った。
 霞流さんが一人で出た。外に出ればこんな轟音に邪魔される事もないし、他の人の目もない。多少罵倒されても、食い下がれるかもしれない。こんなチャンスは無い。
 追いかけて、声を掛けて、それでどうしようというのだろう。
 何の計画も持たないまま、美鶴は扉を押し、階段を上った。そうして再び扉を押して外の世界へと出た。
 暗闇だ。扉の手前も、開けた向こう側も、どちらも暗い。階段を上り、扉を開けたその先から太陽の光が差し込んでくることなどない。
 霞流さんは?
 派手な照明に慣れていた目では闇の中を探るのは難しい。それでも美鶴は必死に目を凝らす。まだそれほど時間は経っていないはずだ。
 右を見て、そして左を見て息を吸った。
 一瞬、一瞬だけ、建物の陰に金糸を見たような気がした。見間違いだろうか? いや、そうじゃない。
 ヨレたコートを適当に羽織り、小走りに追いかけ、まるで誘うかのように跳ねる薄茶色の髪の毛が消えた建物の陰を覗き込んだ。
 闇が広がる。建物と建物の隙間。それでも大人二人くらいは並んで歩けるだろう。
 誰も、いないの?
 不安を胸に一歩踏み出した時だった。
「いい度胸だ」
 言葉と共に背後から()(すく)められる。
「俺に気づかれずに後を付けるなんて事ができるとでも思っていたのか?」
「か、霞流さん、何をっ」
「何を? 胡乱(うろん)な輩の影が見えたから取り押さえようとしたまでの事」
「う、胡乱って」
「やれやれ、捕まえてみれば阿婆擦(あばず)れか」
「あっ」
 阿婆擦れ。
 耳の奥に、甘く気怠い声が響く。

「そのわりにはこうやって簡単に許してしまうんだな」

 カッと頬が熱くなる。
「違いますっ」
「じゃあ何だ? こんな夜更けにまでマッチ売りか? 商売熱心な事だ」
「私はマッチ売りの少女なんかじゃありません」
 両手で霞流の腕を掴むが、生半可(なまはんか)な力では解けそうにない。ぴったりと背後から身を寄せられ、振り向く事もできない。
「マッチ売りじゃないのか。なら、何を売っているんだ?」
「私は別に何も」
「何も? 嘘だろう? 何の稼ぎも無い人間に、あの店の金が払えるとは思えない」
「え?」
 ワケがわからず聞き返す。耳元で、クツクツと声が笑った。
「お前、あの店の料金をどうするつもりだった?」
「料金って、お金?」
 お金って、飲んだウーロン茶の事だろうか? 確か三杯飲んだはずだ。だったらいくら美鶴でも払えない事はない。
「お前、まさか飲み物代を聞かれていると思っているワケではないだろうね?」
「え? 違うんですか?」
「ふん、母親が水商売だというからその辺の知識はある程度持ち合わせてはいるだろうと思っていたが、これでは人並み以下だな」
 呆れられたような声に頬が紅潮する。
「だ、だって、あんなお店入った事ないんだから」
 必死の反論も単なる言い訳にしか聞こえない。だが、ここで黙ってしまったら相手の思うがままに話を進められそうで、反論せずにはいられない。
「べつに霞流さんに心配してもらわなくったって、ユンミさんが」
「奴が払うとでも言ったのか?」
「いっ」
 言った、と言おうとして言葉を飲んだ。







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